映画評『クォ・ヴァディス』暴君ネロに背いた男を壮大なスケールで描くスペクタクル史劇

カチンコ 映画評
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『クォ・ヴァディス』
1951年アメリカ
原題:Quo Vadis
監督:マーヴィン・ルロイ
原作:ヘンリク・シェンケヴィチ
脚本:ジョン・リー・メイヒン
   S・N・バーマン
   ソニア・レヴィン
音楽:ミクロス・ローザ
出演:ロバート・テイラー
   デボラ・カー
   ピーター・ユスティノフ

『クォ・ヴァディス』イントロダクション

西暦1世紀前期。

当時ローマ帝国は紛れもない世界の中心だった。

だが強力な権力は腐敗するのが常である。

人の命は不確かで、個人は国家のもの。

殺人が正義に変わる。

征服された国々は人民を奪われ、身分にかかわらず奴隷や人質とされた。

ローマの鞭と剣からはだれも逃れられない。

この権力と腐敗と悲惨に満ちた世界を打壊す力は地上にはないと思われた。

だが30年前に奇跡が起こっていた。

十字架で一人の男が死んだのだ。

人々を解放し、愛と復活の福音を広めるために。

しかしその十字架も、今はローマ軍旗の前にかすんでいる。

これはその不滅の戦いの物語である。

西暦64年の初夏。

ローマを治めるのは後の世に反キリストで知られる皇帝ネロ。

そしてローマへ続くすべての街道のなかでももっとも名高いアッピア街道を、行進する軍団があった。

マルクス・ウィニキウス(ロバート・テイラー)率いる第14軍団がローマ凱旋の帰途にあったのだ。

マルクスは老将軍アウルスの館で、リジ族の王女リジア(デボラ・カー)と知り合う。

美しいリジアをマルクスは一目見て求愛するが、粗野なマルクスの言動にリジアは彼の求愛を拒む。

リジアはアウルスのもとで娘同然の扱いを受けていたが、マルクスはリジ族の人質であるとして強制的にリジアを皇帝ネロ(ピーター・ユスティノフ)の晩餐に引き立て、ネロは褒美代わりにアウルスからマルクスへの身柄の委譲を許可する。

だが、その夜リジアは姿を消す。

マルクスは占い師の力を借りてリジアの行方を捜したところ、彼女がキリスト教の信者であることを知る。

マルクスはキリスト教徒の秘密の集会場に赴く。

そこでは使徒ペテロ(フィンレイ・カリー)が教徒たちに教えを垂れていた。

集会が解散となった後、マルクスはリジアを連れ戻そうとするが、抵抗にあい、怪我を覆ってしまう。

そんなマルクスをリジアは看病し、リジアはマルクスに心を許すようになるのだった・・・。

暴君ネロに背いた男を壮大なスケールで描くスペクタクル史劇『クォ・ヴァディス』

ノーベル賞作家シェンケヴィチの歴史小説を壮大なスケールで映画化したのがこの『クォ・ヴァディス』である。

暴君と言われるネロの治世下のローマ帝国を舞台として、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスと、キリスト教徒の娘リギアのあいだの恋愛を活写しているほか、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落し享楽にふけった生活や社会、キリスト教徒への迫害の様子が描かれる。

歴史上のローマの大火を、ネロ帝が自分の理想の都市を造ろうとするが故に、すでにあるローマの街を燃やそうと画策して火をつけた、というのはドラマティックでスペクタクルではあるが風説の一つに過ぎない。

タイトルの「クォ・ヴァディス」とはラテン語で、「(神よ)どこへ行かれるのですか」という意味で、ネロのキリスト教迫害から逃れてローマを出ようとしたペテロが、道中夜明けの光の中に、こちらに向かってくるイエス・キリストの姿を認め、驚きひざまずいたときに発した言葉で、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節からの引用でもある。

尋ねるペテロにキリストは答える。

「そなたが私の民を見捨てるのなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」

暴君ネロは大火の責めを負い、民衆に追い詰められ、軍には離反され、自死することになる。

『クォ・ヴァディス』は物語としてのディフォルメはあるものの、いくつもの歴史上の事件をうまく組み込んで、当時の風俗を丁寧に描いたことで、重厚なスペクタクル史劇となっている。

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