映画評『野火(2015年)』戦争という極限状況下で人間がみせる本性

カチンコ 映画評
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『野火』
2015年海獣シアター
監督・脚本・主演:塚本晋也
原作:大岡昇平

『野火』イントロダクション

太平洋戦争末期のフィリピン、レイテ島。

主人公田村(塚本晋也)は肺病のため従軍不可能と判断され、部隊を追い出だされ、野戦病院へ行くよう命令される。

だが野戦病院でも、食糧をはじめとした物資の激しい損耗のため、田村は入院を拒否される。

何度も部隊と野戦病院を行き来するも、やはり双方から拒絶され、戦地で行き場を無くした田村は、熱帯雨林の山野へと迷走を始める。

現地フィリピン人からはすでに敵視され、かくまっても貰えない。

アメリカ軍に投降を試みるも、目前で日本兵が射殺されるのを見て、それもあきらめざるを得ない。

山中ときおり出会う日本兵はすでに戦意を喪失、生存のために支給品の煙草を芋と交換する不思議な貨幣制度を編み出していた。

とてつもない飢えに苦しむ田村の目の前に、死んだ日本兵の肉体を食すという考えがふと浮かぶ。

異常なまでに生に執着する田村は人肉食の誘惑と葛藤する・・・。

塚本晋也版『野火』の描き出す、生に執着する人間の懊悩

原作は大岡昇平の同名小説で、大岡の実体験をもとに書かれた戦争小説。

あちこちで野火の上がる戦時下フィリピンの森林原野。

さ迷い歩く田村一等兵が、飢えと肺病にやられながら、戦争という異常な状況と兵士たちの精神状態を描いた傑作小説である。

この原作にほぼ忠実なかたちでストーリーを追い描かれる塚本版『野火』。

しかし単なるトレースではない。

1951年という時代に発表された原作『野火』の文学性の高さを損なうことなく、極限状態での人間の、汚い生への執着、本性、弱さを、現代の映像作品として、そして塚本信也の個性を失わずに描いている。

塚本晋也といえばコアな映画ファンからは『鉄男』で知られる、スピーディで荒々しい、バイオレントな個性が評価され、クエンティン・タランティーノ、ギレルモ・デル・トロなど高名な映画監督たちにもファンが多い。

そういった作品手法を要所要所に押さえながら、今作『野火』では戦争の苛烈さを描くために使用している。

いっぽうで兵士たちの極限下での精神状態の変化を描くシーンでは、丹念に、アップを効果的に使い、静かながらも効果的な表現でメリハリをつけている。

こういった映画的・映像作品的手法は、小説ではどうしてもできないものだ。

名匠・市川崑版の『野火』との比較も面白い

『野火』は1959年に一度名匠・市川崑監督の手で映画化されている。

こちらと比較するのも楽しみ方の一つだ。

市川崑版『野火』と比較すると、まず第一に違うのが、市川崑版は白黒フィルムであるのに対して塚本版はカラーであること。

色という情報量が増えるだけでも大変なのに、塚本版は銃撃を受けたり、犬に襲われるシーンなどに苛烈な表現があるため、より恐ろしさ・嫌悪感が増す。

また市川崑版はどちらかといえばもっと「文学寄り」だ。

市川崑の『野火』は表現が全体的に静謐で、派手なアクションは無く、ナレーションで田村一等兵の精神状態を緻密に描く。

これが塚本版だと、やはり時代もあるだろう、カメラワークもサウンドも比較して派手になる。

死んで腐りかけ、ウジが湧く死体の表現や、銃撃を受け変形する頭蓋、飛び散る血しぶき、カニバリズムなど、塚本版のほうが明らかに現代的で直接的だ。

市川崑のほうが上品である・・・、というと塚本が下品なのかというと、そうではなく、塚本のほうがよりバイオレントな表現ができた(可能だった、許された)ということだ。

市川崑版『野火』も素晴らしい映像化作品であったが、やはりつくられた年も、あいだに50年近くの年月が入ると、原作が同じでもこうも違うかと思わせる。

むろん二人の監督の作家性の違いは、初手から言わずもがなの違いがあるのだが。

塚本晋也は原作の『野火』を高校生の時に読んで衝撃を受けたという。

また、自身がリスペクトする映画監督の中には市川崑の名前も挙げている。

今作の映像化には並々ならぬ気合があったろうことは、想像に難くない。

そして、長い構想期間と塚本晋也監督の個性に見合っただけの怪作になっているのは間違いない。

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