映画評『ときめきに死す』 ジュリーはどのへんにときめいていたか?

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『ときめきに死す』
1984年ヘラルド・エース/にっかつ
監督・脚本:森田芳光
主演:沢田研二、杉浦直樹

あらすじ

自称「歌舞伎町で医者をやっていた」という男、大倉洋介(杉浦直樹)はある組織から莫大な報酬をもらって、工藤直也という一人の男(沢田研二)の世話を依頼される。

北海道の田舎町の別荘で、工藤は黙々とトレーニングに励み、世話をする大倉とは会話もろくにしない。
酒もタバコもやらず、会話も拒否する偏屈な工藤との生活に神経をとがらせる大倉。
大倉には工藤の正体も目的も知らされず、質問することも許されていない。
そんなある日、組織から一人の女梢ひろみ(樋口可南子)が派遣されてくる。
組織は工藤のパートナーに彼女を選んだのだが、工藤は梢に関心を示さず、ひたすら日課に打ち込む。
静かに3人の日々が過ぎていく中、組織から工藤に指令がくだる。
工藤は暗殺者だった。
とある宗教団体の指導者の暗殺を命じられた工藤だったが、任務に失敗、警察に捕縛される。
移送中のパトカーの中で、工藤は壮絶な自死を遂げる。

感想

正直ジュリーが出ているというだけで見たのであるが、『魔界転生』のようなエンタメや『太陽を盗んだ男』みたいな社会派に訴えるものとか一切ない、静かで難解な作品である。

たとえば主人公の工藤が謎が多すぎる。

いや、謎があるキャラはいい。
だが、明かしてほしい謎が謎のまま、視聴者に投げっぱなしで終わるのはいかがなものか。

たとえば組織からの指令で工藤が暗殺を試みるのは分かる。
工藤は暗殺者で、暗殺は指令だからだ。
一方工藤は暗殺対象の宗教家もしくは宗教団体に非常にこだわっていることを想像させる。
だが、その理由が不明である。

要は主人公である工藤の動機が見えづらいのだ。

一部、宗教団体とのかかわりを示すかのようなシーンがあるが、「視聴者への想像にお任せします」感ありあり。
あと一歩、工藤というキャラクターを掘り下げてくれれば、ジュリーがもっと魅力的に演じてくれたはずである。

キャラクターの数は少ない、尺は十分。

出来たはずだけどなあ。

良かったところは当時(1984年)のアジア太平洋映画祭助演男優賞を受賞した杉浦直樹である。
さすが賞を取るだけあって主人公級のキャラ立ち。

原作が、この杉浦演じたところの大倉の一人称「私」の視点で描かれている。実質主人公なのである。

謎キャラ工藤をジュリーは確かにしっかり演じた。
一方、それは杉浦の助演があればこそ成り立つものであった。

と考えれば、この作品の弱点は、暗殺者工藤のキャラを描き切れていない脚本、もしくは演出だったろう。

脚本は監督を務める森田芳光。原作の設定に変更を加えたうえでのこれである。

文学的で幻想的なフィルム回しが上々なのは森田節である。
監督が見てほしいのはそういったところだったかもしれない。
だが、なんかもやっとしたままジュリーが死に至るのには、どうも判然としないのであった。

もう一つ謎があった。
どのへんがときめきに死んでるのかわからないッ。

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